ルーラルアート+ふるいちやすしの日記 -5ページ目

美意識

ルーラルアート+ふるいちやすしの日記

映像を作る者にとって
何を美しいと思い、何を思わないか
それだけではないと思う
例え一見何でもないものを
撮るからにはただ撮るのではなく
最高の形で撮り収める
もちろんその為には
カメラを構える前から
それと向き合い、
美しさを見つける事が大切だ
その時、その姿にばかり捕われていると
本当の美しさは見えてこない
そこに見る人の愛情を注ぎ込む
それが好きな人の思いを背負ってみる
創作の場合はその人が自分である事が多いが
ドラマの場合は相手役の思いだったり
CMの場合は消費者や、製造者の思いも関係する
いくら美しいと思った物であっても
それを撮るだけでは
「記録」「説明」以上の物は生まれない
だから結局は人間の感性の力なんだ
だから美意識は千差万別なんだ

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そういう意識で最近の映像作品を見ていると
「記録」や「説明」が多すぎるので嫌になる
先日幾つかの作品を立て続けに観ることがあったが
美しいと思えるカットは一つしかなかった
シーンではない
カットだ。
そこで私は気付いてしまった
美意識がずれているのは自分なんだと
僕には今の大衆が美しいと思える物は作り得ないのだと
その場を立ち去り
どうしようもない絶望感を感じながら歩いた
この差は今更歩み寄れる物ではない
それから三日程経っているが
その絶望は変わっていない
ただ、もう一つ
怒りにも似たやる気が湧いてきている
だったら貫いてやろう
たくさんの人に楽しんでもらいたいという気持ちは
今も強くあるけど
一度諦めよう
人の作品に文句を言うのはもうやめよう
自分の目と感性を濁らせない為に
ただただ自分の美意識を磨き、従うしかない
そこには未知も闘いもまだまだある
決心したからと言ってすぐに美しい物が作れる筈はないけど
でも真っすぐそれに向かって生き抜こう
止まらない方法はもうそれしかないよ

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あの時の音

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あの時の音を聴こう
そうすればきっと蘇る
飽きずに何度でも心は高鳴る
変わってしまったのではない
確かにたくさんの
ずいぶんたくさんの音が積み重なって
よく分からなくなっているけど
下の下の
肝の奥深くに
きっとまだある共振板
今またそれを振るわせる事は
危険だけど、大人げないけど
あの時の臭いは忘れた
あの時の光はもう二度と見られない
だからあの時の音を
また
聴こう

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とにかくギターに夢中だった中高生の頃
クラシックマニアだった父親が
裕福でもないのに突然買ってしまった
Celestion DITTON25という英国製のスピーカー
頭を抱える母と逆切れに近いふてくされの父
(喜んでもらえるとでも思ったのか?)
それを尻目に大音量でロックをかけまくる
父はカンカンだったが所詮会社員
昼間はこっちの物だ
Allman Brothers Band / エリザベス・リードの追憶
あの時の音だ

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やがて僕はプロのギターリストになった
とは言ってもアーティストとしてではない
いわゆる職人ギターリストというやつだ
その世界は
物心ついた時にはすでに音楽を初めていた人
楽譜を見たと同時に弾き始める人
それが当たり前の世界だった
中学生になってからジャンジャカジャーンとギターを弾き始めた僕が
いや、それでもそうとう頑張ったが
上へ昇っていけるような所ではなかった
演歌であろうとジャズであろうと
好きであろうがなかろうが
とにかく弾かなければならなかった
そんな音が
僕が愛していたロックや
後で愛していると気付いたクラシックや映画音楽の上に
べたべたと積み重なっていった

ついに僕はその道をあきらめて
作曲家としてやっていく事にした
その後、プロデューサーとなり、
今は映像を作るようにもなっているが
職人ギターリストの呪縛からだんだん逃れ
自由になってきている気がする
おかしなもので
今、ギターを弾くのがとても幸せだ
というか、
あの世界では幸せではなかった事に気付く
そして今必要な感性は
おそらくプロになる前の
ギターに夢中だった頃のあの高鳴りなんだろうと思う
それは映像を作る為でも
変わりはない

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その後
父親から譲り受けたCelestionは
女房から“でかすぎる”という理由だけで自宅を追われ
今は僕のスタジオに在る。
もう決してプロの音作りに最適な物ではなく
コーン紙がいつ抜け落ちてもおかしくない老人だ
だけど、できれば、ずっと側にいてほしい
大事な仕事がある
今はCDになってしまって
アンプもモダンな物ではあるけど
Allman Brothers をかける。

僕にはあの時の音を聴く必要があるんだ。

MITAKON 35mm f0.95 使ってみた



最近35mmのいいレンズがどんどん出て来てる
しかも安くで!
そりゃそうだ、今や主流はAPS-CとSuper35。
その標準となると35mmだもんな。
すでに韓国のSamyangが格安でf1.4を出してるし
僕も使ってるけど
これが結構、というかかなりいい!
ところがそれの上を行きそうなのが
中国の中一光学のMITAKON 35mm f0.95
早速使わせてもらってる。
なんたって0.95!
ボケる、というか溶ける。前も後ろもね。

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この距離感(5mくらい)で木を撮って
空が溶けてる
こういうのってなかなかできない事なんだ
また新しい表現ができそうだな
ただし、外の動画ではNDフィルターは必須
というか、ほとんど真っ暗になってしまうくらいのが必要で
たまらず可変NDを付けっぱなしにした

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使ってて思ったんだけど
フィーリングはコシナ/ツアイスのPlanarに似てる
コーティングの色味が少しグリーンがかるところまでそっくり
これ、中国お得意のパ○○?
いや、失敬!
それくらいクオリティーが高いって事です。
この日は全て開放で撮っていたけど
絞り込んでテイストがぐっと男性的になるところまで似ている
そして何よりf0.95だからね
逆にツアイスと比べるのも失礼かもしれない
そして価格はCANON EF 50mm f1.2の半分!
日本のメーカーにもいい35mm作ってもらわないと。

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おまけに近接が30cmまで寄れたりするもんだから
これはひょっとすると歴史的なレンズになるかもしれない。
手に汗握る(笑)フォーカスリングも
スムーズで粘りもある。
愛用のNEX FS100のセンサーのスムーズさと
この溶け具合は最強だなぁ
さて、どう使おうか


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もっと近くで

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盆地育ちの僕としては
こんな春の雑木林の山肌を
いつももっと近くで感じてた
東京へ来てからの一番の不満が
山が、森が遠いということ。
景色があんまり変わらないんだよ
町並みはそうそう変わる物じゃないけど
その向こうにある山肌が
微妙に色を変えてゆく
中でも春の山は本当にいろんな色がとけ込んで
名前も呼べずにただ見とれてしまう
見ているうちに、一つ風が吹くたびに
またどこかが変わってしまうんじゃないかと思えるほど
静かに劇的
ああ、東京にばかり閉じこもっていると
だめだな

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今日、東京の電車に乗ると
前の席の全員が携帯を見ていた
大人も子供も
まあ珍しい事じゃない
外を見てても何も変わらないものな
むしろ僕のようにきょろきょろしてると
不審者だよな
でも色を感じ、音を感じ、空気を感じ
そして心振るわせる事
忘れないで下さい。
で、
やっぱり時には遠出しようよ!




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海の端っこ

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海を何か特別な物のように感じるのは
とても傲慢な事だと思う
実際僕らは
海の端っこで
息をするためにちょこっと顔を出して
生きている。
向こう岸が見えているとちょっと安心するんだが
水平線だともう怖くて
もうちょっとだけ
ここ、お借りしててもいいですか?

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どんなでっかい船だって
分かってる?
ペッと浮いてるだけなんだよ
それでも海を渡っていける勇気には
敬意を払うけど
その大きな世界の中から
狙った種類の魚を獲って
僕らに食べさせてくれる漁師さんも
すごいけど
いやぁ、とてつもなく
でかい、でかい。小さい、小さい。
こうして今回も海を好きになるどころか
ボロ負けして帰ってきた。